エヴァネタバレ注意

シン・エヴァを観た。

整理して書くと記憶が改ざんされて、素直な感想にならなさそうだから思いついた順に箇条書きだ!

 

2時間30分、全然苦痛じゃなかったな。これは途中で「あ、シン・エヴァはエンタメのエヴァンゲリオンとしてじゃなく、マジの庵野秀明の日記みたいな作品なんだな」と気づいて一気に肩の力が抜けたからである。気が抜けたのではなく、肩の力ね。

エヴァ私小説だみたいな話はずっと前からあったと思うし、実際テレビシリーズも旧劇場版もその要素は多くあったと思う。ただシン・エヴァは完全に私小説に全振りしたという印象だね。

これまでのような「よく分からん用語や設定が飛び交って、それに振り落とされないようにしがみついて画面と音に集中しなきゃいけない」というモノだと思っていたら、TVシリーズからシン・エヴァまでの気持ちの変遷や、「今はこう思っていますよ」という近況報告の映画だったのである。

なるほど!それなら「この槍はこういうものだから、こういう現象なんだな」「アダムはあーだこーだで、リリスとリリンはアレだからどうのこうの」みたいなことを考えずに、庵野秀明が今どう思っているか だけを把握できれば良いんだ。

そう判断したので、途中から用語や設定にしがみつかず、展開だけを注視することにした。

 

キャラクターやセリフに自己を投影することは創作においてよくあるけど、今作は投影どころかほとんどそのまんまじゃね?と思った。物語や展開に自己を混ぜ込むのではなく、ほぼそのまま自己を出している。おそらく意図的であり、「気づく人は気づく」「解釈によってはそう」というレベルではなく、誰でもそうだと思えるぐらい露骨に自己を出していたと思う。

電車内でのゲンドウのセリフなんかは、これ完全にゲンドウじゃなくて庵野秀明じゃん っていうね。突然、実写で監督が出てきて「映画をご覧のみなさん、こんにちは 庵野秀明です。私は幼い頃から人との交流を避け…」としゃべり始めたのかと錯覚するぐらい、ゲンドウじゃなくて庵野秀明だった。

庵野秀明の独白を、声優がしゃべっている。何ならエヴァンゲリオンという作品舞台すらもう意味が無くなっているような状態だと感じた。

1つの作品としてはかなり欠陥品だなあと思う反面、25年間も自分が作った作品に振り回され、悩んできた一人の人間の答え みたいなものは迫力があった。あまりにも個人的な作品なので批判もありそうだけど、それでいてエヴァの最終作品なら、これで良いんだなと腑に落ちる感覚もある。いずれにしても視聴する人の「欲しい着地点」によって賛否が分かれるんじゃないかな。自分は良かったと思う。 

シン・エヴァはロボットもの、空想科学もの、ファンタジーとしてはほとんど成立してないと思う。今作においてはほとんどのキャラクターも作品の中に息づく生物ではなく、舞台装置もしくは庵野秀明自身もしくは庵野秀明と関わった実在の人物達である。

 

 

庵野秀明は自己矛盾に満ちていて、それが魅力なんだろうなとも思った。

今は「人にやさしくする、家族とのつながりを大事にする、手を取り合う ことを是とするモード」なんだと思う。シン・エヴァでは「過去に囚われるな。虚構から現実に飛び出せ」というメッセージが込められているように感じた。過去作でもそういったメッセージを込めていることがあったけど、今作は過去と虚構を切り捨てるのではなく、寄り添って受け入れて、そして次に進もう という形に変化している。

しかし、そもそも過去に囚われまくって虚構を作り続けていたのは彼自身であり、リアルだけの世界・社会では彼は生きられない。アヤナミレイ(仮)が過ごした第三村の生活を理想郷のように描写していたけど、あの狭くて人と人との関わりが必須な世界こそがかつての彼には苦痛だったはずである。

そんな彼が作ったのがエヴァンゲリオンであるし、その虚構に夢中になり、救われた人がたくさんいたはずだ。でも、「その虚構から現実に飛び出せ」とかつての教祖が言ってしまうのである。そういうところも含めて面白いなあと思う。

 

 過去作との決着を明確にしていたのがすごく良かった。

バッドエンドなのかグッドエンドなのか判別がつかない終わり方をしていた旧劇場版、体だけ大人になってずっと海辺に横たわっていたアスカに対して「僕もアスカが好きだったよ」と言うシンジ。いや~これは良かった。ここと、ゲンドウの独白シーンで「シン・エヴァンゲリオン劇場版、見てよかった!すごい!」と思えた。

 

ラストシーン、人に自分の気持ちを素直に出せるシンジも良かった。ゲンドウやマリ、ミサトらは舞台装置もしくは庵野秀明の独白を代わりにする「口」としての役割しか無かったけど、シンジだけはエヴァンゲリオンのシンジとしてちゃんと着地点があったように思う。まあシンジ自体が庵野秀明の投影ではあるが。

 

今回も知らない用語はバンバン出てくるけど、それを楽しむかつてのエヴァンゲリオンとしての要素はかなり薄いと思う。極限まで庵野秀明という個人に寄った作品であるため、これまで新劇場版で展開していたオリジナルストーリー自体にあまり意味が無いと思ったからだ。

と、思っていたら突然ミサトの父親が人類補完計画の提唱者として出てきたのは驚いた。ここであんまり本筋に影響していないと思っていた人物が、黒幕じゃないけど元凶かもしれない というぶっ込み。これ、元々あった設定なんだっけ?シンでの初出しだと思うんだよな。

 

3DCGが多くてちょっと味気無いなあと思った。これはシンだけではなく、新劇場版全体で言えることだけどね。

大部分の戦闘シーンや、巨大綾波がCGなのが残念。けど、あれは多分意図的なものなんだろう。エヴァ世界から見て虚構の存在だと強調したいモノに対して3DCGが使われている感じかも。ヴンダー乗員のピンク髪の子に「変!」って2回も言わせてるしね。

意図があるにせよ、やっぱ3DCGはパチンコ・スロットの演出画面かよってぐらいショボく感じるんだよな。3DCGはATフィールドが可視化した時ぐらいにしてくれ!

やはり動きのあるシーンこそ絵で表現するのが庵野作品の魅力だし、消費者が求めているモノなのではないか 、とも思う。旧劇場版の弐号機VSエヴァシリーズのような、絵による動きの表現が欲しいというのが本音だ。

 

過去との決別が強調されるシーンが多かった。

シンジ・アスカの「好きだった」もそうだし、本来王道とされていたであろうカップリングを崩したのもそうだ。シンジ・マリ、アスカ・ケンスケは予想してなかったなあ。

でもそれもすごく良かった。

 

設定モノとしてのエヴァは今作では成立してない的なことを言いまくったけど、それは自分がただ理解しておらず、そのあたりもしっかりカバーしている可能性もある。カヲルが言ってること、全く分かってないしね。

もしかしたら整合性の取れる形で全部そのあたりの決着もつけているかもしれない。ただ初見でそれを拾う能力は自分には無かった。

でも、「人類が槍作れます!」「シンクロ率、無限大です!」とした時点でそのあたりをオフィシャルで放棄しているように思うんだよな。無理だったものを無理じゃなくして、とりあえずメインストーリーにも決着がつくように無理やり持ってきた設定もあるように思う。

 

 

今回、エヴァンゲリオンという大きなプロジェクトを通して「25年間の個人的な思いに対する決着」というドキュメンタリーを見た という感覚である。

そのためシン・エヴァは満足である。めちゃめちゃ良かった。決着つけられてよかったね、と思った。

ただこれに付き合うのは今回限りでいいかな!という気持ちもある。

これからはエンタメ色が強い、単純に作品単体として面白いものを見たいと思う。それこそシン・ゴジラのようなね。

ということでシン・ウルトラマン期待しています!